2012年6月28日木曜日
ローマ(10)
ベルヴェデーレの中庭に向かう途中にある ライオン君 ちょっとたれ目で そばにいてほしそうでしょ。みんなが触っているのか つるつるしていました。
ビーナスとお供の・・・・ 「フェリックスのヴィーナス」
『アポクシオメノスの像』
競技の後にへらみたいなもので汗を拭う選手の姿だそうです。
でも、ちょっと見は、もうヘラクレス。ギリシャのマッチョ
ヘルメスの像
このヘルメス(ローマ名ではメルクリウス、あるいはマーキュリー)は、ギリシャ神話の神ゼウスの末っ子。羽の生えたサンダルを履いて風のように走り回り、ゼウス神の使者の役割を果たした。また、頭が良くて機敏なことから、商業や貿易の守り神でもあったということらしいです。
次は 動物の間 何だかよくわかりませんが 動物がたくさん
笑っている ライオン ???
そして ミューズの間
ミューズの間というだけあって、沢山のミューズたちの像が展示されています。
ミューズはギリシャ神話の詩と音楽の女神で、ゼウスとムネモシネ(記憶の女神)の娘で9人姉妹と言われているそうです。有名なミューズのトルソーがありますが お写真はありません。このあたりは よく分からん。
そして部屋の中央に大きな石杯が置いてある 円形の間 どうやってこの大きな石杯を持ち込んだのか?ですよね 円形の部屋を 王様らしき像が取り囲んでおられます。
ここを出ると エジプトの部屋 それはまた次回へ
2012年6月25日月曜日
2012年6月24日日曜日
一関
強い低位気圧の通過で雨がひどくなってきたので 一関までもどりました。お昼は平泉でお餅御膳の予定でしたが、とても中尊寺まではもどれないので 一関の駅前で探しましたが これがまた開いているお店が少なくて まあそうですよね。観光案内所で見つけてもらって 駅前の一関サンルートの喫茶室がレストランを兼ねているのでそこで昼食。新幹線は15時過ぎ 列車の変更が聞かないことが分かって 3時間 雨は降っているしね そこで一関の街散歩 案内地図がありました。
日本キリスト教団 一関教会 なかなかおしゃれでありますね。
旧 沼田家武家住宅 門を入ると屋敷の入り口 道側には通常座敷がある間取りになっていることが多いのですが この地区の武家屋敷は広い土間とかまどがあって、農家のような感じ 座敷は奥にあります。守るためにはこの方がいい。座敷には柱が中央に入っていて天井も低く刀が自由に振り回せないようになっております。
旧沼田家住宅概要: 沼田家は一関藩家老を勤めた家柄です。城主である田村家の陣屋に程近く、外堀内部に配置されている事から「内家中」と呼ばれ、一般の足軽や商人達と区別されていました。外掘にあたる磐井川は度々叛乱し、特に昭和21・22年に襲ったカザリン・アイオン台風は城下町の風情が残る町並みを一掃し、一関が近代的な町になるある意味で起点となりました。その中で、旧沼田家住宅は幕末に建てられた当時の原型を留めていて、当時の一関藩上級武士の生活を知る上で貴重な存在となっています。一関藩は三万石と言われていますが実石では二万三千石程度だったと言われ、財政面では常に逼迫した状態にあり、家老職を務めた住宅であっても破風付な玄関など華美な装飾がなく極めて質素な形態を取っています。又、間取り的には同じ岩手県で伊達領の要害が置かれた金ケ崎の武家屋敷で見られるような座敷が道路側でなく奥に配置されているのが特徴的です。道路側に座敷を配置するといのは、藩主(城主)が道路を通った時逸早く出る事が出来る事や、外部の侵入者に対して有利とも言われていますが、逆に土間や玄関が手前にある事は利便性に長け実用的だったとも考えられます。一関藩では学力に力を入れ、多くの学者を輩出していますので、より合理的に考える藩風があったのかも知れません。
次は 一関の銘酒「世嬉の一」の蔵元 を歴史資料館や喫茶室 直売所 にしてあるところ 大きな酒樽や醸造につかった道具などが展示されています。入り口の別室には一関にゆかりの文学者の紹介もあってここは興味のある人にはちょっと意外な発見もありますね。
島崎藤村 井上ひさし 及川和男 三好京三 色川武大 など 東北は小学校の作文指導「北方綴り方」運動でも有名 文学では 宮沢賢治でもあるし 今はなんと 原発になっていますがね。
このすぐそばに カウントベーシーも訪れたジャズ喫茶の名店「ベイシー」もあります。 時間待ちの雨模様でそういう気分になれなかったのが おそまつでした。雨は小ぶりになってきました。
この中に入れるようになっておりまする。
■ニックネーム 蔵ぶー(世嬉の一酒造株式会社) ■年齢 大正7年に誕生し、90歳を超えました。 ■住んでるところ 岩手県一関市田村町5-42 ■好きなたべもの 清酒 世嬉の一、いわて蔵ビール、お餅料理 岩手県にある小さな楽しい作り酒屋です。大正7年に閑院の宮様がおこしになった際に、「世の人々が嬉しくなる一番の酒を作りなさい」ということで、世嬉の一(せきのいち)というお名前をいただきました。今では、蔵元レストラン(郷土料理レストラン)やいわて蔵ビールの醸造も手がけ、小さいながらきらりと光る酒蔵になっております。ぜひ一度遊びに来てください!
東北旅行はこれにて めでたく 終了です。 (やっと終わった。よかったー これで ローマにもどります)
2012年6月22日金曜日
毛越寺
東北旅行3日目は 雨になりました。 毛越寺(もうつうじ)には11時過ぎ 中尊寺の参道入り口に巡回バスが止ります それに乗りました。 一回150円
ここがバス乗り場にある 弁慶塚 やっぱりね お参りして置きました。
毛越寺は中尊寺のような見るべきものはほとんどありませんね。しかし、三代 藤原秀衡が造営した伽藍は中尊寺をしのぐ規模だったということですね。 「吾が朝無双」と称されていたそうです。
火災
嘉禄二年(1226)、つまり平泉藤原氏が滅亡して37年後に、毛越寺は焼けてしまうんですが、このとき「霊場の荘厳さは吾朝無双」と絶賛し、その焼亡を借しみました。
「吾朝無双」というのは「わが国では並ぶものがないほどみごとだ」ということです。そして、その三日前に月の光をのみ込んでしまいそうな大きな炎の玉のような惑星が鎌倉などの夜空にあらわれ、火災があったその日に鎌倉の町中で毛越寺の炎上を触れ歩く奇怪な事件があったことも伝えています。しかも、あとで聞いたところ、触れ回った時刻と炎上の時刻とが一致していたということです。今のようにテレビや電話があったわけではありません。平泉での事件はふつうは十日ないしは半月近くかかって鎌倉に伝わるのです。これがほんとうだとしたら、なにか政治的意図のある放火と考えられます。
このころの鎌倉はすでに源氏の嫡流の実朝が暗殺され北条執権時代に入って、前年に頼朝の妻の北の政所・政子が死去、前々年には北条義時も亡くなって、各地に群盗が横行する不安な時期だったようです。鎌倉でのできごとの真偽はともかく、毛越寺の壮麗さは、当時、それほど鎌倉の人びとに大きな印象を与えたといえます。
小池平和著「平泉藤原時代-その文化と人びと」より
ここも 中尊寺と共に 世界遺産でございまする。
境内には若い女の子がたくさん それも白線と引き綱の周りに列をなしていました。どうしたことかと確かめてみると 午後から行われる 義経東くだり の義経役に 私は聞いたことも見たこともありませんが溝端順平というタレントがなるということがその理由でした。 見るだけでしかないのに2時間も前から 並んで待っているうだって すごいね。私もあやかりたい門です。
この池は「大泉が池」といいます。毎年5月に 曲水の宴(杯が流れてくるまでに歌を詠む)が行われています。京都の平等院のような感じを思い浮かべてもらえばこの池の意味が分かります。写真右手の奥に 社殿があったということですね。
ここにも芭蕉の句碑 もちろん 「夏草や兵ものどもが夢の跡」
人気のないところに、今はただ夏草だけが生い茂るばかりだが、ここは、かつて義経主従や藤原一族の者たちが功名・栄華を夢見たところである。知るや知らずやこの夏草を眺めていると、すべてが一炊の夢と消えた哀れさに心が誘われる。
雨が激しくなってきましたので 早々に平泉の駅にもどることにいたしました。
2012年6月16日土曜日
中尊寺
「五月雨や降りのこしてや光堂」
あたりの建物が、雨風で朽ちていく中で 光堂だけが昔のままに輝いている。まるで光堂にだけは、五月雨も降りのこしているようではないか
ご存知 松尾芭蕉 俳人に扮して東北各地の状況探索 別称 その旅を 奥の細道 この日も雨に濡れておりました。 やせておりますねえ 芭蕉式 ダイエット。
重要文化財の能楽堂があるというので、
おみごとでごじゃる。1853年に伊達藩によって再建された物で、近世の能舞台遺構としては東日本唯一のものと言われています。
これは大日堂 この後 本堂 弁慶堂 を通って 参道入り口まで戻りました。5月3日は義経巡航行列が午前と午後あるはずでしたが 雨のため午前の部は中止 巡回バスに乗って毛越寺まで 巡回バスなのに義経行列が始まるので 途中で運行ストップ 待っていたお客さんは 怒っていました まあそうだよね 「どうすればいいの。」 だから まあバスのほうも動けないよね。
北上景勝地
5月2日の北上景勝地 ここより北の弘前が満開ですから、それはもう予想通り 満開は4・5日前といったところでしょうか。 まだ桜が残っていたのがよかった。そんなところ まあいいでしょう。北上川の水量の多さを実感できたということで。
せっかくなので、北上川を渡し舟で渡ってみることにいたしました。この時期だけの限定ですよ。
お天気は下り坂 前の日の弘前がうそのようで 明日は豪雨になるかもしれないというよほうではありましたが。
まだ、こいのぼりが北上を渡って泳いでおりました。 さくら散れど 川面を泳ぐこいのぼり 北上の春においけれ
2012年6月14日木曜日
青森 5
ねぶたの里 から長年一度は見てみたいと思っていた あの三内丸山遺跡 縄文時代にすでに稲作や栗の栽培が行われていた 北の大地の大発見 佐賀の吉野ヶ里遺跡と同じように 野球場の建設工事中に発見されたんです。 何も気づかなければ この大発見はグランドの下に消えうせていた!! 写真は有名な 縄文時代の竪穴式住居 奈良時代まで同じ形式で造られていました。しかしながら 今回の見学で新しいことが判明いたしました。このどこにでも復元模型として造られているこの竪穴式住居は特別な資料に基づいて造られてわけではない。! ・・の大学の先生がこんなものではなかろうか と想像してスケッチをかいたものを基にして作ってみた。それがいつのまにか 縄文時代の竪穴式住居はこれだ! ということになってしまった。ということで ここではいろいろな形と材料の住居が作られていました。
よく考えればそうですよね、縄文時代に写真も文字もなかったんですから、銅鐸や埴輪に住居の絵や形が出てくるのはもっとずっと後 縄文時代は 3000年から5000年ほど前の時代ですからね。
とまあ、私はこういう事柄に興味があるので 熱が出るということですが、興味のない方々には ただのわらでできた掘っ立て小屋でしかありませんから ここで見たからといって特別な何かが感じられるなんていうことはほとんどありませんでしょ。 ねぶたや桜の弘前城 金の財宝 そっちのほうが気持ちが高まりますね。でも、ほとんどの人たちは 金銀財宝とは無関係の生活で お城の御殿の中で生活できていた方々は ごく少数。ということは 自分の祖先はどちらだったか ルーツをたどると この目立たない 変哲もない掘っ立て小屋で生まれ育ち 次の命を創りだして それを繰り返し 21世紀 てなわけと考えると こっちのほうにもっと興味関心を持っておかないといかんのじゃあなかろうかと思ってしまうんです。
左は祭りなどを行ったりしたところ 今でいえば室内ホールという感じでしょうか 右はご存知の栗の 柱でできた見張り台 直径2mの穴が4.2m間隔に6本 直径1mの栗の柱 一番上は8m近くあります。復元当時すでにこのような太さの栗の木材は日本にはなかったので ロシアから運んできたんですよ。ということはシベリアにはそんなものがある。今でもあるのかもしれない。そう思うとシベリアの人を寄せ付けない寒さと広さは驚愕でありますね。 中東へのロシアやイランの対応には怒りしかありませんが こういうところはすごいもので (まあ お金ですかね)・・・
この柱の構造は 現在の建築学的計算とかわらない方法で造られているということがわかっています。計算より現実が先をいっていた。そういうことですね。 上まで登れるようにしてくれればもっと人が集まるはずだと思うんですが、そういうところが 頭が固いんだな、考古学っていう分野の人
(ごめんなさい) 上まで登るのにお金取ればいいんじゃよ。ふむふむ
これで見学終了 新幹線の時間があるので 新青森へもどります。中に発掘展示館があります。そちらのほうも見たかったんですがね ねぶたの里が遠かったね
2012年6月11日月曜日
青森 4
棟方志功記念館からタクシーで「ねぶたの里」 なんでこんなへんぴな所に造ったのか?これじゃあ車じゃない人は来られない。まあ観光バスがくればいい っていうことかな。 毎年ねぶたが終わるとその年の作品は解体されてしまうので、優秀作品のいくつかをここに展示してある らしいです。 入れ替えがあるのでしょうかね。 いくつものねぶたが並んでいる様子は圧巻! お手軽観光なら これでねぶたは十分見た! っていう感じ
さすがに大きいです。 こんなものが街の中を引き手と跳ね子に囲まれて曳航されると盛り上がるよねえ 最後は海に回って 花火が上がる 「ぜひ 見に来てください。」タクシーの運転手さんが話してくれていました。でも宿が取れないよね。 だれか親戚を作らないと
ここは、1時間おきに ねぶたの曳航と跳ね子の体験があります。さっそく係りの(扇子で調子を合わせている人)人に合わせて 動かします。 といっても車がついているのと 飾りだけなので簡単に動きます。 実際は道路に沿って動かさないといけないので そこが難しいところでしょうか。引くというより押すっていうことですね。
次は跳ね子踊りの体験 太鼓の音で跳ね方が変わるという説明 衣装を着た跳ね子ほ女性が(どこでもこういう人は顔を見せないようにしていますね 七尾の風の盆でも同じ)若い子じゃないっていうことかな?
というようなわけで、丸く輪を作って みんなで跳ねっこを踊りました。けっこうたのしいですね。太鼓に合わせて ピョンピョンするだけですが。
弘前のねぷた は中国もの 青森はなんでもあり それは青森は夏に芝居小屋が出てその宣伝のためにねぶたを造ったということがあったので、なんでもあり ということになっているんだそうです。今は一台造るのに 2000万から3000万もかかるそうで 個人や町会規模ではとてもできない どうしているのかというと、それぞれ企業が宣伝広告を兼ねて造っているということでした。
2012年6月9日土曜日
青森 3
青森のおすし屋さんの続き あまえびなどのお造りの次は 鯛のおすまし 鯛はいいだしが出るのは昔から 軽くあぶってあってこうばしさと上品なだしで おいしゅうござる
ちょっと、写真が暗いのですが 食事の場所なのでフラッシュは無しですから パカパカフラッシュたいてるお下品な人たくさんおられますけど サザエの酒蒸し もう身を切り分けて入れてあります。上手に食べないと普通は肝のところを取り出せずに切ってしまうんですよね。 そこで綺麗に肝まで出して切り分けてもう一度中に入れてあるという親切 「全部で7つありますから。もうないと思って残されるお客さんいらっしゃいますから。」とていねいにつけたし。普通肝は苦いし見かけが悪いので若い子とか はたまた大人の味のわからない人たちは食べません。ここのサザエはどこが肝だったのか分からないくらい だしがおいしいのと新しいので苦味がないうまみだけで食べてしまいます。 佐渡で自分でとってきたサザエをその場で焼いて食べた時を思い出させてくれました。
これは器だけで中身がみえませんねえーー これは(コノコ) ・・・ といって ナマコのこども 珍味なんだそうです。 写真を撮る前に ナマコ大好き人間は 珍味と聞いて食べてしまいました。ナマコの体の中に入っているんです。それは見たことないね。 もちろん食べたこともない さばいた時に子どもがいても 気がつかずに 捨ててしまうよね。以前 博多のお店で 赤ナマコの肝がおいしいよ と言われて 新しくないとだめだから 今度ある時に出してあげるから そういわれてそのままになってしまいましたが それと似ているのかもね。 私が「これは 赤ナマコ? 青ナマコ?」と聞きましたが これだけは 私のほうが勝って 板前さんは 知らなかった 多分 赤ナマコしかあがらないのかな もうここ以外で食べることはないね。
ここから お寿司の始まり 始まり 最初は ノドグロ
ヒラメとほたて ここまでは 塩を振ってあるので そのまま食べます。これが驚きの味 そのレベル(お値段)のお店に行けばよくあることなんでしょうが 普段は回転寿司愛好会会員レベルでは こんなお寿司があったのか !! 醤油でごまかされない 通の方がおそばを食べる時に 初めにそばだけを食べる というのと似ているような気がしますが、とにかく参った!っていうようなお寿司でした
シマエビ エビって見かけはおいしそうですが おすしのエビは味はどれも同じ でもこれは甘さがお口にじんわり こっちのほうがアマエビより甘い気がいたしました。
いくつかお寿司がとんでいますが とにかく今までのお寿司というものを一変させる味ということは間違いありませんよ これは大間のマグロ 赤身と縞エビ 赤身なのに甘い 国産牛の甘みとよく似た感じ ねたはうすくて何の変哲もないようなんですが お口に入れると美味しさがじわっと広がってきます。 エビはなんというエビですか と尋ねたので エビを見せてくれました。 体にそって縞が入っていました 普通のエビは体を巻いてからに添ってラインが見えますがこのエビは頭からしっぽに向かって赤いラインが見えます。それで縞エビ プリプリしてエビをしっかり主張してくれていました。 この赤身のマグロは来て食べる価値あり。 「銀座のキュウベイにいっていた方が月いちでここ すずめ に新幹線で食べに来る」 という話 話半分とまではない本当の話でしょう 銀座で食べるっていうのと何をどう比べるか でしょうから このメニュー5150 東京では考えられない。 それに お店の人はみなさん優しいね お客だから そういうのじゃない気持ちっていうのが伝わってきました。都会に集まるとこういう心はなくなってしまうんですよね。
以前松本でもそうでした。 駐車場のただの係りの人なんだけど 気持ちがわかるんですよね。青森は タクシーの運転手の方も 一生懸命津軽の自慢 ねぶたの素晴しさ もう話したくて仕方がない そういうのっていいなあ ねぶたは最後は 海に出てまわるんだそうで それが最高なんだそうです。 ぜひ見に来てほしい 親切ごかしで、結局は自分のタクシー代稼ぎの京都の個人タクシーとは大違い 人のことばっかしじゃなくて 日々反省 !! 青森にお出かけの折はぜひ ここへ
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