2012年6月14日木曜日
青森 5
ねぶたの里 から長年一度は見てみたいと思っていた あの三内丸山遺跡 縄文時代にすでに稲作や栗の栽培が行われていた 北の大地の大発見 佐賀の吉野ヶ里遺跡と同じように 野球場の建設工事中に発見されたんです。 何も気づかなければ この大発見はグランドの下に消えうせていた!! 写真は有名な 縄文時代の竪穴式住居 奈良時代まで同じ形式で造られていました。しかしながら 今回の見学で新しいことが判明いたしました。このどこにでも復元模型として造られているこの竪穴式住居は特別な資料に基づいて造られてわけではない。! ・・の大学の先生がこんなものではなかろうか と想像してスケッチをかいたものを基にして作ってみた。それがいつのまにか 縄文時代の竪穴式住居はこれだ! ということになってしまった。ということで ここではいろいろな形と材料の住居が作られていました。
よく考えればそうですよね、縄文時代に写真も文字もなかったんですから、銅鐸や埴輪に住居の絵や形が出てくるのはもっとずっと後 縄文時代は 3000年から5000年ほど前の時代ですからね。
とまあ、私はこういう事柄に興味があるので 熱が出るということですが、興味のない方々には ただのわらでできた掘っ立て小屋でしかありませんから ここで見たからといって特別な何かが感じられるなんていうことはほとんどありませんでしょ。 ねぶたや桜の弘前城 金の財宝 そっちのほうが気持ちが高まりますね。でも、ほとんどの人たちは 金銀財宝とは無関係の生活で お城の御殿の中で生活できていた方々は ごく少数。ということは 自分の祖先はどちらだったか ルーツをたどると この目立たない 変哲もない掘っ立て小屋で生まれ育ち 次の命を創りだして それを繰り返し 21世紀 てなわけと考えると こっちのほうにもっと興味関心を持っておかないといかんのじゃあなかろうかと思ってしまうんです。
左は祭りなどを行ったりしたところ 今でいえば室内ホールという感じでしょうか 右はご存知の栗の 柱でできた見張り台 直径2mの穴が4.2m間隔に6本 直径1mの栗の柱 一番上は8m近くあります。復元当時すでにこのような太さの栗の木材は日本にはなかったので ロシアから運んできたんですよ。ということはシベリアにはそんなものがある。今でもあるのかもしれない。そう思うとシベリアの人を寄せ付けない寒さと広さは驚愕でありますね。 中東へのロシアやイランの対応には怒りしかありませんが こういうところはすごいもので (まあ お金ですかね)・・・
この柱の構造は 現在の建築学的計算とかわらない方法で造られているということがわかっています。計算より現実が先をいっていた。そういうことですね。 上まで登れるようにしてくれればもっと人が集まるはずだと思うんですが、そういうところが 頭が固いんだな、考古学っていう分野の人
(ごめんなさい) 上まで登るのにお金取ればいいんじゃよ。ふむふむ
これで見学終了 新幹線の時間があるので 新青森へもどります。中に発掘展示館があります。そちらのほうも見たかったんですがね ねぶたの里が遠かったね
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