2012年6月22日金曜日

毛越寺


東北旅行3日目は 雨になりました。 毛越寺(もうつうじ)には11時過ぎ 中尊寺の参道入り口に巡回バスが止ります それに乗りました。 一回150円 



ここがバス乗り場にある 弁慶塚 やっぱりね お参りして置きました。



毛越寺は中尊寺のような見るべきものはほとんどありませんね。しかし、三代 藤原秀衡が造営した伽藍は中尊寺をしのぐ規模だったということですね。 「吾が朝無双」と称されていたそうです。

 
火災
 嘉禄二年(1226)、つまり平泉藤原氏が滅亡して37年後に、毛越寺は焼けてしまうんですが、このとき「霊場の荘厳さは吾朝無双」と絶賛し、その焼亡を借しみました。
 「吾朝無双」というのは「わが国では並ぶものがないほどみごとだ」ということです。そして、その三日前に月の光をのみ込んでしまいそうな大きな炎の玉のような惑星が鎌倉などの夜空にあらわれ、火災があったその日に鎌倉の町中で毛越寺の炎上を触れ歩く奇怪な事件があったことも伝えています。しかも、あとで聞いたところ、触れ回った時刻と炎上の時刻とが一致していたということです。今のようにテレビや電話があったわけではありません。平泉での事件はふつうは十日ないしは半月近くかかって鎌倉に伝わるのです。これがほんとうだとしたら、なにか政治的意図のある放火と考えられます。
 このころの鎌倉はすでに源氏の嫡流の実朝が暗殺され北条執権時代に入って、前年に頼朝の妻の北の政所・政子が死去、前々年には北条義時も亡くなって、各地に群盗が横行する不安な時期だったようです。鎌倉でのできごとの真偽はともかく、毛越寺の壮麗さは、当時、それほど鎌倉の人びとに大きな印象を与えたといえます。

小池平和著「平泉藤原時代-その文化と人びと」より

ここも 中尊寺と共に 世界遺産でございまする。



境内には若い女の子がたくさん それも白線と引き綱の周りに列をなしていました。どうしたことかと確かめてみると 午後から行われる 義経東くだり の義経役に 私は聞いたことも見たこともありませんが溝端順平というタレントがなるということがその理由でした。 見るだけでしかないのに2時間も前から 並んで待っているうだって すごいね。私もあやかりたい門です。



この池は「大泉が池」といいます。毎年5月に 曲水の宴(杯が流れてくるまでに歌を詠む)が行われています。京都の平等院のような感じを思い浮かべてもらえばこの池の意味が分かります。写真右手の奥に 社殿があったということですね。



ここにも芭蕉の句碑 もちろん 「夏草や兵ものどもが夢の跡」 


人気のないところに、今はただ夏草だけが生い茂るばかりだが、ここは、かつて義経主従や藤原一族の者たちが功名・栄華を夢見たところである。知るや知らずやこの夏草を眺めていると、すべてが一炊の夢と消えた哀れさに心が誘われる。

雨が激しくなってきましたので 早々に平泉の駅にもどることにいたしました。



 

 



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